這是久保田老師在公司9S會議上的講的話,一個細節決定了一個人的品質!拋開民族情結,學習一下日本人做事的嚴謹吧!
(久保田 ?正明--現任西鐵城廣東冠利鐘表社長)
以下是原文及翻譯:
> くぼたまです。
我是久保田。
> 先週の土曜の9S會議で ”なぜ椅子を出したままではいけないのか?” という質問
> を受けましたので、靴の話(インターネットから)を送ります。
> 翻訳して配信してください。
> 椅子も靴も考え方は同じ!”基本的な躾”の中のひとつです。
> 日本の文化を押し付けるつもりはありませんが、他の文化を知る、他の工場
> を知ることによって、自分たちのレベルを認識して向上することが出來ると
> 考えます。
椅子和鞋子一樣,都是“基本素養”的一條。
> 我沒有把日本的文化強加給大家的意思,只是想讓大家通過
多了解異國文化及其他工廠的(想法,做法等)來使大家清楚的
認識到自己處于哪一個水平,并積極進取。
> 下記は、人に良い印象を與える様なマトメになっていますが、9Sを基に仕事
> の姿勢を良くして、成果につなげる。そのための”躾””作法”と理解して欲しい
> と思います。
下述雖然只是可以給別人留下好印象的禮儀做法,但是就是這樣
不起眼的一件件小事,如果可以以9S為指導思想應用于工作中,
可以收到意想不到的效果。因此請正確理解這些“素養”,“做法”。
>>>
> ****靴とはいえ、,あなどれない。,脫いだ靴で、,人間性まで判斷されてしまう****
****鞋子可是不可小視的!脫下來的鞋子的狀態可以反映出鞋子主人的素養,
甚至人性****
>>> アメリカでは、家の中も寢室も土足で入るのが一般的です。
在美國,人們都一般直接穿著鞋子進入家中或臥室。
>>> もちろんずっと靴をはき続けるのはむれたり疲れたりするので、家庭によっ
>>> て は、スリッパやサンダルなどに 履き替える家庭もあるようです。
>>>當然一直穿著鞋子腳可能會感覺悶,不透氣或者累,也有的家庭會換
拖鞋。
>>> しかし、それはまだ少數であり、土足文化は根強くあります。
但是,那畢竟是少數,穿著鞋子進門的文化根深蒂固。
>>>
>>> 私がアメリカに留學した際、訪問したホスト先ではやはり土足でした。
>>>我去美國留學的時候,所訪問的主人家就是“穿著鞋子進門的”。
>>>すべての部屋に土足で入ることに、最初は違和感を覚えた記憶があります。
>>>所有的房間都可以直接穿著鞋子進,一開始的時候我感覺很
不適應。
>>> 一方で、日本には靴を玄関で脫ぐ文化があります。
>>>而日本文化是,在玄關處把鞋子脫掉。
>>> 畳は神に通じる神聖なものだという言い伝えがあるからです。
>>> 榻榻米被人們認為是與神對話的神圣的東西。
>>> そういう文化の中で生活しているのですから、文化にのっとったルールを守
>>> る こ とが大切です。
在這樣的文化背景中生活的人們,遵守與其文化相符的
規則,習俗和習慣等是非常重要的。
>>>
>>> では、玄関でただ靴を脫げばいいのかというと、そうでもない。
>>> 這樣的話,是不是可以說只要把鞋子脫了就OK了呢?
>>> 脫いだ靴が、きちんと出船にそなえられていることが大切なのです。
>>> 脫掉的鞋子要擺放好,為方便出門做好準備。
>>> 靴をそろえ、きれいに脫ぐ。
脫鞋子也要漂亮的脫,脫好,放好。
>>>
>>> なぜかというと、マナーや文化だけの問題ではありません。
這是為什么呢?這可不單單是禮儀和文化的問題。
>>>
>>> 脫いだ靴の狀態で、その人の生まれや育ちまで判斷されてしまうからです。
>>>通過觀察拖掉的鞋子的狀態,其人的身世和教養可窺一斑。
>>> きれいに玄関で脫いだ靴を見ると、いい印象を受けますね。
看到整整齊齊擺放在玄關的鞋子,肯定會對鞋子主人產生好印象吧!
>>>
>>> * 「まあ。きれいに脫いで偉い」
* 「呀。鞋子脫的真好,好棒!」
>>>
>>> * 「親からのしつけがきちんとなっているのね」
>>> * 「教養真好!」
>>> * 「マナーがいいね」
>>> * 「真有禮貌!」
>>> きれいに靴のかかとをそろえて脫いでいる人のほうが、賢いような印象を受
>>> け て しまうから不思議です。
另外不可思議的一點是:脫鞋后把兩只鞋鞋跟對齊擺放的人往往會給人
一種腦袋靈光的印象。
>>> 一方、靴が散らかっているとどうでしょうか。
那么,鞋子散放會怎么樣呢?
>>>
>>> * 「まあ。なんてマナーが悪いのかしら」
>>> * 「呀,真不懂禮貌!」
>>> * 「親からのしつけがなっていない」
>>> * 「真沒教養!」
>>> * 「普段もやんちゃで、いたずらばかりしているに違いない」
>>> * 「平時肯定也樣兒翻天,只會調皮搗蛋!」
>>> このようにマイナスの印象を持たれてしまうのです。
就會給人留下這種負面的印象。
>>>
>>> * 「そんなばかな! 脫いだ靴ぐらいで人の善しあしを判斷させてたまる
>>> か」
>>> * 「這種傻瓜式推理!!難道就僅僅憑一雙脫下來的鞋子就武斷的判斷
其人的善惡么?」
>>> 確かにその通りです。
正是!
>>>
>>> 脫いだ靴ひとつで、その人の人間性まで判斷されてはたまったものではあり
>>> ま せん。
僅憑一雙脫下來的鞋子并不能判斷其人的人性和品性。
>>>
>>> しかし、悲しいかな。
但是,抱歉。
>>>
>>> いくら自分がそう思ったところで、そう判斷してしまう世の中があります。
不管你自己怎么想,有時世人就會如此判斷。
>>>
>>> 実際のところ、脫いだ靴でその人の育ちを判斷してしまう場合のほうが多い
>>> の です。
實際上,很多情況下從一雙鞋子就可以看出一個人的教養。
>>>
>>> そういう世間であり、世の中です。
就是這樣一個世界。
>>>
>>> 単なる玄関で脫ぐ靴とはいえ、あなどれません。
玄關脫鞋這樣一件小事,也不可小覷!
>>>
>>> 親は、子どものころに玄関で靴を脫いだら、きちんとそろえることをしつけ
>>> る こ とです。
父母從孩子小的時候就會教育子女把鞋子放好。
>>>
>>> 子どものためなのです。
這都是為了孩子好。
>>>
>>> しつけるときも、親が靴をそろえるのではありません。
教育的時候,不是父母代勞把鞋子擺好。
>>>
>>> それでは意味がない。
那樣的話沒有任何意義。
>>>
>>> 子どもが脫ぎ捨てた靴が散らかっているのであれば、子どもを呼んで、きれ
>>> い に 整えさせるのです。
孩子把鞋子散放的時候,父母會把孩子叫回來,命其擺放好。
>>>
>>> 「脫いだ靴はきれいにそろえる」という常識を、徹底的にしつけるのです。
父母會把“脫了鞋子后要放好”作為一項常識徹底教育孩子。
>>>
>>> 「あたり前のこと」と思わせるくらいに、しつけておくことです。
直到讓孩子覺得這是理所當然要做好的事情為止。
>>>
>>> この基本があるかないかで、その後の人生で得をします。
如果連這一點都做不到的話,今后也會沒有出息。
>>>
>>> きれいに靴を脫ぐだけで「きちんとした人だ」と判斷されるようになるのです。
因此人們會憑“脫鞋子”這一點就判斷“他(她)是一個很有條理的人。”
希望我們能學到一點東西!