本を読まないと、失ったものは何か?
答案:思考的能力!
「近頃わかものたちは本を読まなくなった」と指摘されたことがよくある。なぜ大人たちは、若者が本を読まなくなったことをなげくのか。「本を読まなくなると、どんな悪いことがあるのか。」「本を読まなくなって失われるものは何か」。この問いを少し展開して、「本を通じて得られるもの」と「本をなければ得られないものが何か」を考えてみましょう。
例えば、本を通じて得られるものは、知識、情報(bào)、教養(yǎng)、楽しみ、興奮、感動など。それでは、それらのうち、「本がなければ得られないものは?」と考えると、何が殘るでしょうか。今や電子メディアの普及で、大抵の知識や情報(bào)は、本でなくても、手に入れるようになりました。活字メディアよりも數(shù)段はやく、しかも手軽に様々な情報(bào)を手に入れることができる時(shí)代になったのです。楽しみや感動、興奮にしても、映像、音響メディアの発達(dá)から、本でなくても深い感動や楽しみを得ることはできます。むしろ、こうしたものは、発達(dá)したAV機(jī)器によって、本よりも迫力をもって伝えられる時(shí)代になりました。原作の本を手に活字を目で追っていくよりも、大畫面の大音響のもとで映畫化された作品を見るほうが興奮や感動もずっと大きくなる可能性だってあります。それでは教養(yǎng)はどうか。確かに、ビデオをみても、コンピュータから得た情報(bào)によっても、あるいは講演會や大學(xué)の講義などを通じても、「知識」を得ることができます。「教養(yǎng)」をたんに知識としてみれば、なるほど活字メディアでなくてもよさそうです。
それでも本でなければ得られないものは何か。それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機(jī)會を得ることになる。つまり、考える力を養(yǎng)うための情報(bào)や知識なと格闘をする時(shí)間を與えてくれるということだ私は思います。他のメディヤと異なり、本をはじめてとする紙に書かれた活字メディアでは、受けての歩調(diào)に合わせて、メッセージを追っていくことができます。活字メディアの場合、読み手の歩調(diào)で文章を行ったり來たりすながら、「行間を読んだり」「論の進(jìn)みかたをたどったり」することができるのです。言い換えれば、他のメディアに比べて、時(shí)間のかけ方は自由であるということです。文章を行ったり來たりできることは、立ち止まってじっくり考える余裕を與えてくれることもあります。いかに真実らしいセリフに出たっても、話しているときのように「そんなものかな」と思って十分吟味もせずに納得してしまわない。本の場合、そうしたいかに真実らしい自體を疑ってかかる余裕が與えられるということです。