天かけるコザイ星
古在行星 劃過天際
今月、89歳で亡くなった天文てんもん學者古在由秀(こざいよしひで)さんの家系図かけいずを見て驚く。母方ははかたの祖父の弟は元首相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)氏。父方の祖父は元東京帝大総長??鄤褐椁氦稳松蛳胂瘠丹护毪gは陰影いんえいの多い少年時代を送った
本月天文學家古在由秀先生逝世,享年89歲。筆者翻看了他的家譜后備受震驚。其外祖父的弟弟是前首相幣原喜重郎先生,祖父曾擔任東京帝國大學的校長。這讓人想到他一生應該無憂無慮,但實際上他的少年時代卻有些坎坷。
▼古在さんから聞き取りをした天文學者の高橋慶太郎?熊本大準教授によると、?。菠文辍⑩煹兰紟煠坤盲扛袱·说工臁⑼訾胜毪蓼牵保澳甏菠朔筏?。頼みの叔父由重(よししげ)氏(哲學者)は一度ならず治安ちあん維持法で検挙される。世間せけんの目に耐たえ、母は喪服もふくも買えなかった。
天文學家及熊本大學副教授高橋慶太郎曾聽古在由秀先生說起他的經歷。據他們所述,古在由秀小學2年級時,擔任鐵路技術員的父親不幸患病,臥床10年直至去世。照看他的叔父古川由重先生(哲學家)因違反治安維持法被逮捕數次。他一直忍受著世人異樣的目光,母親甚至連喪服都買不起。
▼東大では弟らを養やしなうため家庭教師に勵はげみ、物理の単位たんいを落とす。不人気な天體力學を専門にしたのは「五輪でいえば大競技場での活躍をあきらめ、観客の少ない種目を狙ねらった」から。星の動きを計算する地道じみちな仕事を好んだ。
在東京大學期間,他為了養育弟弟們忙于家教,導致物理掛科。之所以選擇冷門的天體力學作為專業,是因為“如果用奧運會來比喻的話,我就像放棄了在大型運動場上一展身手的機會、觀眾較少的比賽項目。”他熱愛計算星體轉動這個踏實穩健的工作。
▼人生の軌道きどうが変わったのは1957年、ソ連が人工衛星スプートニクを打ち上げてからである。衝撃しょうげきを受けた米國は気鋭きえいの學者を呼びよせ、古在さんはボストンの天文臺で研究に沒頭する。人工衛星の軌道を割り出す「コザイの式」で腳光きゃっこうを浴びた.
1957年,蘇聯發射了人造衛星斯帕特尼克,他的人生軌跡因此開始發生改變。備受打擊的美國邀請了一些志氣滿滿的學者,古在由秀先生在波士頓天文臺埋頭鉆研。他因推算出計算人造衛星的軌道公式“古在公式”,備受世人矚目。
▼『月』『天文學のすすめ』など良著を多く世に出した。どれも宇宙の魅力を伝えたいという情熱じょうねつに満ちている?!傅厍颏涡韦涎螗圣贰埂福常皟|年前、月は壊れそうなほど地球に近づいた」「100億年以上たつと地球にも環(わ)ができるかも」
他還著有《月》、《天文學的前進》等多部優秀著作。這些著作中都飽含著他欲向世人展示宇宙魅力的熱情?!暗厍虻男螤钍茄罄妗?、“30億年前,月球離地球之近幾乎毀滅”“100億年之后地球或許也能呈圓形旋轉”。
▼伸びやかな宇宙解説がどれほど多くの天文ファンを生んだことか。その名を付した小惑星3040番「コザイ」はいま、火星軌道あたりを回っている。
這些輕松愉快的宇宙講解產生了多少天文迷啊。現在,以他的名字命名的小行星第3040號“古在”正在火星軌道附近旋轉著。
【天聲****單詞****】
△陰影(いんえい?):(名)陰影(薄暗いかげ、くもり);含蓄,耐人尋味的地方(転じて、平板でなく深みのあること。ニュアンス)
△単位(たんい①):(名)學分(高等學校、大學で、學習量を測る基準);團體、組織的基本部門(一つの集団、組織などを構成する基本的なひとまとまり);計算單位(長さ、時間などを計る時の基準となるもの)
△地道(じみち?):(名,形動)踏實(手固く著実な態度);質樸(素樸)
△気鋭(きえい②):(名)朝氣蓬勃(気力があって、意気込みが鋭いこと。)
△腳光を浴びる(きゃっこうをあびる):演員登臺,初露頭角
【背景新聞****】
**1、訃報 **
古在由秀さん89歳=國立天文臺初代臺長
毎日新聞2018年2月12日 18時39分(最終更新 2月12日 21時46分)
古在由秀さん89歳(こざい?よしひで=國立天文臺初代臺長)5日、肝不全のため死去。葬儀は親族で営んだ。喪主は妻美音(みね)さん。
人工衛星の軌道を計算する「コザイの式」を編み出し、人工衛星の軌道の亂れから地球の形を調べる「衛星測地學」を創始するなど、天體力學の世界的な業績で知られる。88年に設立された國立天文臺の初代臺長。同年から3年間、國際天文學連合會長を日本人として初めて務めた。ハワイのすばる望遠鏡の建設にも盡力。97年から群馬県立ぐんま天文臺長を務めた。79年に恩賜賞?日本學士院賞、02年に勲二等瑞寶章。09年に文化功労者。
2、幣原喜重郎 しではら-きじゅうろう
1872-1951 大正-昭和時代の外交官,政治家。
明治5年8月11日生まれ。巖崎彌太郎の娘婿。幣原坦(たいら)の弟。駐米大使をへて,ワシントン會議全権委員となる。大正末から昭和初期にかけて第1?第2次加藤高明,第1次若槻,浜口,第2次若槻內閣の外相となり,対英米協調を旨とする幣原外交を展開。昭和20年首相となり,憲法改正にあたった。24年衆議院議長。昭和26年3月10日死去。78歳。大阪出身。帝國大學卒。著作に「外交五十年」。
3、天文臺
日本で天文臺が出來たのは、17世紀末の徳川幕府の天文臺で、それが淺草(臺東區淺草橋三丁目)に移ったのは1782年です。ここで暦を作るのに必要な天體観測を行い、その暦を配布し、また日の出、日の入りの時刻を、鐘を鳴らして人々に知らせていました。
明治になって、1888年に東京天文臺が麻布飯倉に創立され、三鷹に移り、現在では國立天文臺として、ハワイに口徑8.2mの望遠鏡も運用しています。
來源:朝日新聞
朗讀:小妖精 巧麗
注音:呂雪梅
單詞整理:呂雪梅
背景資料整理:蛋黃派
翻譯:Hochan22
后期:恩惠
責編:孫鵬軒