あまりよくないと思いつつ、記者として何度も記事に書いてきた表現がある。「……とみられる」。斷定するほどの自信はないが、ほぼ確かだといえるときに、ついつい使いがちだった。そうやって登場させてきた言葉が、おとといの気象庁の発表にもあった。九州から東海地方にかけて、「18日ごろ梅雨明けしたとみられる」。「ごろ」とあわせ、二重に自信なさげだ。気象予報士の片山由紀子さんによると、梅雨の入りや明けを日付で區切るのはそもそも無理がある。とくに夏の高気圧が安定しない今年は判定が難しい。「私なら、梅雨明けの発表はもう少し待ちます。気象庁の予報官は、ぐずぐずしていると機會を逃すと考えたのかもしれませんが」。気象庁は20年ほど前、梅雨の発表の文言をあえてあいまいにしたことがある。「月上旬の前半」などと幅を持たせた。それが國會で「何だかわからない」「気象庁は逃げている」と批判され、「何日ごろ」という今の表現に落ち著いた。梅雨入りしたと聞かされると、じとっとした気分になる。梅雨明けと言われるとうきうきする。サクラも、開花を宣言されると花見気分が高まる。誰かにお墨付きをもらい、すっきりしたいのだろうか。考えてみれば、不思議である。夜の寢苦しさといい、ビールのうまさといい、當方の頭の中は何日も前から梅雨が明けている。すでに猛暑到來、熱中癥の防止には十分に気をつけたい。不安定な気象との付き合いに、もっと慣れねばと思う。
翻譯:“被認為是……”這個句式雖然讓人覺得不好,但是記者們還是多次在新聞稿里使用。在不是特別確定,基本上差不多的時候,就會不由自主的用這個句式。而在昨天的氣象廳所發布的內容里,這種說法再次登場。從九州到東海地區“18號左右被認為是要出梅了”。加上“左右”這個詞,可謂是不確定二連擊。根據氣象預報員片山由紀子女士所說,原本拿某一個具體的日期作為出梅和入梅的截點就是不科學的。特別是今年夏天的高氣壓不安定,判斷起來特別困難。“我覺得應該稍晚一些公布出梅的日子,也許氣象廳的預報官們覺得磨磨蹭蹭的話會錯過播報的時機”。氣象廳在20多年前,報道梅雨的用詞就刻意曖昧。“某月上旬的前半”等說法來設定時間段。這被國會批判為“完全聽不懂”、“氣象廳別逃避責任”。由此“某日前后”這種用詞才開始固定使用。人一聽到發布入梅的消息,通常會有一種陰濕黏糊的感覺,而聽說了發布出梅就給人一種興奮的坐不住的心態。就如同櫻花,一旦聽到了開花了的公告,大家就會被點燃賞花的熱情。人們都希望這從某處得到一個公開的明示才能感到痛快吧。想想也覺得不可思議。其實我們感覺上好幾天前就出梅了,你看晚上也開始熱的睡不著,啤酒也似乎變得越來越美味。炎熱的天氣已經到來,各位讀者謹防中暑。在不穩定的天氣中度過夏天,我們更需要去適應。
解讀:入梅和出梅也需要政府宣布嗎?在日本是的。日本的氣候同樣四季分明。和中國同樣日本的歷史上也是一個農耕民族,而且他們對細小事物的變化往往比較敏感。所以日本人對四季的變化是比中國人更加的在意的。而從眾的心態也導致了他們對“政府發布入梅出梅”,更有一份在意。其實入梅出梅,天氣自己可以看到,冷暖自知。我記得當初汽車節目TOP GEAR里,主持人就吐槽過英國政府“你們別發什么高溫警報,熱不熱我們不知道嗎”。但是在日本,由于人人都是注意著周圍的社會環境來生活的,所以即使是增減衣物也要做到從周圍而不失禮,所以聽了“出梅發布”再去采取出梅的減少衣物,注意防暑的工作,就能和周圍人一樣而不失禮,就可以讓日本人得到安心感。所以文中才會提到“只有得到宣言才能痛快”就是這個意思。今天的天聲人語是一片就天氣打招呼的文章,天氣,氣候變化豐富的日本,也是一個社交場合開篇引話題的第一句。